流水成道blog: 倉橋正幸アーカイブ

倉橋正幸のブログ記事 4 / 10

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村ごとに少なくとも一人の犠牲者が「必要」とされたことは明らかで、犠牲者の数は最低数に言って100万人に達していたし、多くの研究者は200から500万人のあいだの死者という数字で一致しています。そのうえ、400万から600万人にのぼるクラーク(富農)が、設置されたばかりの労改に連行され、その2倍の「クラーク」が地方当局の「支配下」に置かれたのでした。つまり、恒常的に監視され、最も辛い仕事に使われ、「大衆キャンペーン」の場合には、迫害の憂き目にあったのでした。

地元カトリック教徒会会長の全家族の殺戮および教会の封鎖、富農と連帯していた貧農への体罰と財産没収、過去三世代にわたる「封建的出身者」の追及、架空の財宝のありかを白状させるための死に至る拷問、焼きごてによる拷問をともなう尋問、処刑された者への家族への迫害の拡大、被刑者の墓の発掘と破壊など、1948年以後には、ある種の行き過ぎは廃止されたものの、それ以前は張荘村で猛威をふるったものでした。

中国の雲南省では、旧政府の警察官だったというだけの理由で「地主」に分類され、役人だったために懲罰刑を言い渡され、1951年の地方の土地改革が絶頂期を迎えた時に「階級敵」とされて死刑を宣告され処刑された例があります。しかし、どの行為が正確に処罰の理由となったかはついに明らかにされませんでした。これらはみな、村民の多数の賛同を得ていたように思われます。なぜなら、村民はこの後、強制収用された土地の分配に与ることができたからでした。

スケープゴートの虐殺は、共産党指導部がめざしていたような「正義の味方」としての党の背後に農民の一体性を実現する結果になったとは必ずしも言えませんでした。土地改革という広汎な運動の真の目的は、何よりもまず政治的次元のものであり、次に経済的次元のものであり、最後に初めて社会的次元のものだったのです。土地の40%は再分配されたものの、貧農がさほど裕福さを手に入れる結果にはならなかったのでした。中国の土地改革は、改革そのものを目的にしたのではなく、共産党機関による権力の全面的な奪取をめざしていたのです。そして、これ以上無いほど極端なテロルを操る共産党の能力を反抗分子や軟弱分子に見せつけることこそが目標だったのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
土地改革と都市での粛清(1946ー1957)
農村:従順化と社会工学


ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo

農民の確信を素早くかちえるために、恐怖心を利用する用意がありながら、活動家が「農民改革」の舞台装置をしつらえるための努力を払わねばならなかったのは、戦争中、人民解放軍に加わるくらいなら日本軍支配地域へ逃げるほうを選ぶ青年の数が多かったからでした。また、農民は常に無気力で新政権による小作料軽減後も、伝統的な小作料を地主に対して払い続けるほど地主に対して従順であり、社会的基盤にかんする共産党の理想に賛同するにはほど遠かったのでした。扇動者は農民をその政治的立場から、積極派、標準派、後進派、地主支持派に分類し、なんとかして公式の社会集団にこれらカテゴリーを当てはめようと苦労しました。その結果は、無数の個人的いさかいや願望にまで取り込まざるを得なくなり、怪奇な社会学に行き着くことになってしまいました。しかも、この分類はお好み通りに修正することができ、土地の再分配を手っ取り早く終わらせるために、張荘村当局は、95家族いたはずの貧農を28家族に減らしたのでした。共産党幹部は、ほとんどが特権階層出身だったにもかかわらず、民間人は概して「労働者」に分類され、兵士は「貧農」あるいは「下層中農」に分類されていました。

土地改革の鍵となったのは「訴苦会」でした。村人全員が集まったところで、一人あるいは複数の地主が出頭し、彼らは「裏切り者」と呼ばれました。(地主については日本占領軍の協力者と一体視されていました)昨日まで権勢ををほしいままにしていた人物を前にしてか事態が動き出すまでには時間がかかるため、その場合、活動家が被告人を手荒く扱ったり、侮辱するなどして力を貸すことが必要でした。そうすると一般に、地主に恨みをいだく人々から告発の発言が噴き出し、集会の熱気が高ぶっていきました。そうして、地主の死刑宣告にまで至るまで困難はなく、農民も多かれ少なかれ積極的に参加して、刑はその場で即座に執行されたのです。

各人がその役割を完璧に確信を持って演じきったとき、このホラー芝居は自己批判集会の起源となり、1976年の最高指導者の死まで、すべての中国人が休み無しに耐え忍ぶことになったのでした。こうしたお芝居こそ、中国の伝統的な儀礼主義と体制順応主義への根強い傾向を露にしたものであり、権力はこの傾向を心行くまで利用し濫用しえたのでした。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
土地改革と都市での粛清(1946ー1957)
農村:従順化と社会工学


ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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ロシア革命とは異なり、1949年の中国革命は農村から都市へと拡大していきました。共産党員は土地改革については長い経験をもっていましたが、国民党中央政府との抗日「統一戦線」を維持するために、1937年以降は抑制していました。彼らが土地改革運動を再開するのは、日本敗北後のことで、やがて彼らを権力の座へと導くことになる、1946年の内戦再開の状況においてでした。職業的扇動者が何千と地方へ送り込まれ、村から村へと、人民解放軍による「解放区」のいたるところへと送られたのです。人民解放軍の前進とともに、この運動は南部から西部の国境地帯にまでひろがっていきました。(チベットはこの時点では含くまれていません)

何十万という中国の村々を転覆させることになった土地革命を、ただ上からの人心操作の結果と見るのも、逆に、共産党が「大衆の意思」に応えただけだと思い込むのも、どちらも間違いです。大衆には自分たちを不幸と感じ、変化を願うだけの理由が数多くありました。不均衡の一つは、農民のあいだの不平等だったのです。張荘村では3%しかいない村の有力者が平均26%の土地を所有しており、さらに最も富裕な村民が独占していた高利貸しのせいで、さらにおおきなものになっていたのでした。張荘村では裕福な地主で10ヘクタールあるかないかだけでした。村民の大半は、土地の無い極貧層と、自らの労働では生活しない地主との中間層に属していました。ラテンアメリカでは今なお見られる極端な社会的コントラストと比べても、中国の農村社会は比較的平等主義だったとみなすことができます。ですから、貧富のあいだの紛争は、農村社会における混乱の主要な原因であるとは言えなかったのでした。

そこで、1927年における海・陸豊のソビエト地区と同様、共産党主義者が社会問題のいわば技師の役割を演じたのです。すなわち、恣意的に定義され、境界線を引かれた農村集団をかなり人為的に分極化したうえで、この分極性のなかにこそ、農民の不幸の唯一の原因が存在するのだと宣言したのでした。そうして、扇動者達は農民を貧農、下層中農、中農、そして富農の4つのグループにわけ、この分類から除外されたものを「地主」と宣言し、当面打倒すべき人間とされたのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
土地改革と都市での粛清(1946ー1957)
農村:従順化と社会工学


ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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1949年に共産主義者が権力を獲得したこの国では、暴力と虐殺とが、統治手段として、対抗手段として、あるいは隣人との紛争を清算する手段として、きわめて当たり前になっていました。毛沢東後の公式な歴史において、1957年の反右派闘争の直前まで、偉大な舵取りの毛沢東はほぼ正しい方向に舵を切っていましたので、この時期はすばらしいイメージをとどめているのです。このことから、この時期の共産党員はそれほど粛清の波をかぶることはありませんでした。しかし、中国共産党が打ち出した弾圧の波は、国の全土にわたり展開されました。その広がりや、全般性、継続期間からいっても、毎年のように新たな『大衆キャンペーン」があり、計画化され中央集権化された面からいっても、それは中国的な暴力に質的飛躍をとげさせたのです。

1943年延安での「整風運動」は、その規模たるや広大な国土のなかの辺鄙な地区で起こっただけでした。13世紀のモンゴルですら、帝国の北部を荒廃させただけだったのですが、今回の一連の虐殺は、ある社会層にかんしていえば、中国がそれまでに経験したことのないようなジェノサイド的様相を帯びたのでした。これら残虐行為のいくつかは、3年間にわたる激しい内戦の中でおこったのです。たとえば、満州のスーワンツの町を占領した際に500人の住民が殺されましたが、大部分はカトリック信者でした。やがて1948年に共産党が優位に立つやいなや、プロパガンダ目的で敵の捕虜を大量に釈放するのをやめたのです。何十万という捕虜たちは、再教育と戦争努力への貢献という2つの配慮を結びつける、あらたな労働による改造のための収容所(労働改造、略して労改(ラオガイ))の最初の住人となったのでした。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
土地改革と都市での粛清(1946ー1957)


ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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1949年以前の時期において最も有名な粛清は、1942年6月に延安で最も優秀な共産党知識人を襲うことから始まりました。15年後に毛沢東が全国レベルで行ったのと同じように、まず2ヶ月の間きわめて大幅な批判の自由を許可しました。そして突然、すべての活動家は、男女平等の形式主義を告発していた丁玲(ていれい)と芸術家のために創造的の自由と権力にたいする意見具申の自由を要求していた王実味(おうじつみ)の二人に対して、「闘争する」よう「促され」ました。力つきた丁玲は自らをおとしめる自己批判を受け入れ、屈服しない王を攻撃しました。共産党を除名された王は投獄され、処刑されたのでした。1942年2月「文芸講話」の中で展開された知識人の政治への服従という教義は、以後、法律に等しい価値を持つことになったのです。

1943年7月、粛清は再燃しました。活動家たちを保護するという大義名文をもった「搶救運動」(そうきゅううんどう)の中心人物は、政治局員の康生(こうせい)でした。黒い馬に乗り、黒い犬を連れ、ソビエトのNKVDで教育された康生は共産主義中国で最初の本物の「大衆キャンペーン」を組織することができたのです。つまり、批判と自己批判の全面化、自白に至る選別的逮捕、殴打を内実とするキャンペーンであり、毛沢東の思想を高める運動でした。逮捕、拷問、死亡が広がり、毛沢東は「スパイは毛皮の毛の数ほど大勢いる」と断言し、党指導部が不安を覚えるほどでした。

それまで度々ありましたが、毛沢東は豹変して「われわれは誰一人ころしてはならない。大部分は逮捕されるいわれさえな買った人々だろう」と宣言しました。こうして運動は最終的に中断されたのです。1944年4月、毛沢東は高級幹部の集会で謝罪し、無実の犠牲者達を称えて三度頭を下げ、拍手喝采を浴びました。毛沢東はテロルで人気を失いはしましたが、その分だけ、人心に恐怖を植え付けたのでした。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
テロルと切り離せない革命(1927ー1946)

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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1927年4〜5月新政権の指導者蒋介石と地元の犯罪者集団かrなる秘密結社との同盟により数千人の共産主義者が処刑されました。アンドレ・マルローの「人間の条件」では共産主義者を機関車のボイラーに投げ込むような、ある種の処刑の残忍性について触れています。これら初期のエピソードは長征(1934〜1935年)と同様、大規模な殺戮を伴うものではなかったように思われますが、1937年〜1945年までの日本軍は、広大な中国の占領地域で無数の残虐行為を犯したのでした。

これらの行為よりも、はるかに多くの死者を出したのが1900年、1920〜1921年、および1928〜1930年の飢饉んでした。第二の飢饉は内戦による交通網の解体のためであり「虐殺」という言葉を使うことはできません。しかし、1942〜1943年にかけて河南の場合は収穫が壊滅的であったにもかかわらず、重慶の中央政府は減税を許さず、多くの農民が全財産を没収されたのです。農民達は無給のまま、長さ500キロメートルの対戦車壕の掘削のような夫役を課せられました。河南では内戦が口実になり得たとしても、農民の恨みは深かったのです。

間違いなく最も多数の死者をだした残虐行為はひっそりと展開され、ほとんど何の痕跡も残すことがありませんでした。それは、中国農村部という大洋のなかで、幹線からも遠く離れたところで、貧乏人が貧乏人にたいして行った戦いのことです。彼らは時には恐ろしい徒党を組んで、略奪し、恐喝し、身代金を強要し、抵抗する者を、人質を殺したのです。これらの盗賊たちが捕まると、農民達は嬉々としてかれらの処刑に立ち会ったのでした。

しかし、多くの場合、兵隊の方が盗賊よりさらに大きな災いだったのです。1931年福建省で2500人の兵士からなる部隊が、限度を超えた略奪と強姦を犯したため、憤激した農民のてで殺戮されました。1926年には湖南省西部の農民は、破れた軍閥の配下の「盗賊兵士」約5万を同じように処分したといわれています。1944年には、やはり同じ地方で日本軍が攻勢に転じた時、大勢の犠牲者をだした前年の夫役を思い出した農民たちは、敗走する兵隊を追跡し、時には生きながら埋めたのでした。死んだのは約5万人にのぼりました。とはいえ、この兵士さえも彼らを死刑にした農民と同じように哀れな連中でした。不運にも徴兵にとられ恐怖に怯えていた犠牲者にほかならなかったのです。アメリカのウェドマイヤー将軍の言葉を借りれば、徴兵制度こそ、飢饉や洪水と同じようにの村民に襲いかかり、自然災害以上の犠牲者を生み出したものだったのです。

その他おおくの反乱が起こりました。それらは土地税、阿片税、ブタの屠殺税、不正な裁判・・・など行政機関による収奪と感じられるものを目の敵にしていました。しかし、最悪の打撃は、しびしば農民自身が他の農民にむけて加えるものだったのです。村同士、氏族同士、残酷な戦いは田園を荒廃させ、消し難い憎悪を生み出したのでした。こうした抗争は、政治的なものでも、社会的なものでもなく、ただ、土地の小名士たちがこれによって支配を強化するだけのものだったのです。敵とされたのは移住者であり、川の反対側に住む人々にすぎなかったのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
暴力的伝統によるのか?

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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倫理的原理は超越的なビジョンから派生するのではなく、調和と社会運営の有効性とを重視するプラグマティズムから生まれるのです。これとは別に法家のプラグマティズムがあります。法家は孔子や孫子の同時代ですが、プラグマティズムは逆であり、社会を恫喝することで、国家がその全機能を確立する必要性を強調したものでした。秦の時代、法家思想は栄光の時期を迎えましたが、同時に社会を機能させる上での国家の根本的無効性を証明してしまいました。それは秦王朝が短命に終わったことでも明らかです。

秦の始皇帝(紀元前221〜210年)が、460人の知識人と行政官が生き埋めにしたこと、すべての古典文献を焼き払わせたこと、約2万人の地方貴族に死刑ないし流刑を言い渡したこと、万里の長城建設の為に何万人もの生命を犠牲にしたことは確かです。(毛沢東が秦の始皇帝をモデルとしたのも明らか)反対に漢王朝(紀元前206〜紀元220)になると儒教が力強い復活をとげ、暴政や頻繁な殺戮を経験することはなくなりました。秩序は厳正で、裁判は厳格であり、中世・近世ヨーロッパ諸国と比較しても人命はむしろよく保証されていたのです。

唐王朝(618年 - 690年・705年 - 907年)になってからの645年には人道的な刑法が公布されていました。反乱時の家族の連帯責任を問うことの廃止や、死刑執行の手続きが複雑で時間の掛 かるものになり、同時におぞましい刑罰が廃止されたのです。そのうえ、上訴の制度も設けられました。先のタイプの権力の恣意性は北宋王朝(960〜 1127年)移行は次第に少なくなっていったのです。

1850年の中国の人口は4億1000万人でしたが1873年には3億5000万人に減少しました。数々の大反乱・西洋帝国主義による度重なる侵略・窮乏化した人々の絶望の増大などを特徴とする激しい混乱期だったためです。太平天国の乱とその鎮圧(1851年〜1868年)の時は2000万〜1億の死者を出したとされていますが、意図的に殺戮されたのは、およそ100万人前後でした。共産主義革命家の登場に先立つ先行世代の生きた時代は、稀なレベルの暴力と価値観の崩壊に慣れていったのです。

しかし、20世紀前半の中国には毛沢東主義の猛威を予告するような要素はほとんど無かったのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
暴力的伝統によるのか?

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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これら残酷な千年王国運動(ユートピアの性急な実現を求める運動)を20世紀のアジアの革命運動と比較しないですますのは難しいでしょう。前者は、なぜ時として運動が勝利しえたのか、なぜ運動にともなう暴力が多くの人に正常で当たり前に見えたのか、を理解する助けになるのです。

地方の隅々まで教えられていた公式の教義である儒教は、恩恵を君主の基本的な徳とし、家族になぞらえて国家を形成しよとした。人間主義的な諸原理と呼んでも決して時代錯誤にならないこの態度から、虐殺に訴えることは厳しく退けられ、人間の命に高い価値が付与されていたのです。この事情は時代を遡っても変わらないのです。墨子(紀元前479〜381年頃)は「一人だけの殺人が犯罪とされる一方で、複数の殺人、たとえば、他の国を攻撃するような多数者の殺人が善行として賞賛されるとすれば、善悪の区別を知るなどと呼べるだろうか?」と断罪しました。

孫氏の「兵法」(紀元前500年頃)によれば「戦いは火事のようなものだ。武器を置こうとしない者は武器によって滅びる」とされています。経済的に、可能な限り短期間だけ戦い、流血を最小限にとどめるのがよい。「持久戦がいずれの国にせよ利益をもたらした例はかつてみられたことがない・・・百戦百勝は最高の技量ではない・・・敵を打ち負かすのに秀でた者は、敵の脅威が具体化する前に勝利を収めるものだ」敵軍を全滅させようと懸命になってはならない。「敵軍を捕虜にすることは敵軍の絶滅に優る・・・殺人を勧めてはならない」殺戮と残忍な行為は敵に憎悪と絶望的なエネルギーとを呼び起こすばかりであり、敵はそれを利用し、状況を有利な方向に転換させうるかもしれない」さらにこうも言っています、「最良の政策とは、国家を無償のまま奪い取ることである。国家を滅ぼすことは次善の策でしかない」と。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
暴力的伝統によるのか?

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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歴史上中国が血なまぐさい衝動に駆られたのは、世界の他の地域と同じように宗教という媒体を利用して起こされたものでした。中国の2つの偉大な伝統である、儒教道教を隔てるのは、理論的相違、あるいは項目ごとの対立というよりむしろ、孔子の側は社会と合理性を強調し、道教の提唱者である老子のほうは個人と直感性、感性、さらに言えば非合理性を強調したところにありました。ほとんどの中国人のなかでこの2つの中国的性格の面が共存しているのです。

画像:Wikipedia

 

危機が訪れる瞬間には、最も恵まれない人々や、最も窮地に立った人々のあいだでは道教が優位を占めて、儒教の拠点である知識人のピラミッドにほかならない国家へ攻撃を仕掛けることがありました。終末思想と救世主思想をいだく宗派に触発された数多くの反乱がです。歴史上では、184年の道教の影響下にある太平道によるの黄巾の乱、515年の法慶を指導者とする弥勒教徒の反乱、1120年の方臘を指導者とするマニ教徒の反乱、1351年の白連教の乱(紅巾の乱)、1813年の八卦教の乱(天理教(奈良の天理市にある天理教とは別物)=白連教の一派)など。これらの運動は似かよっていて、道教と民衆仏教の混淆(こんこう)形態をとり、弥勒をしばしば前面に押し出しています。この未来の仏陀は贖罪主として到来するのですが、これは「旧世界」の全面的破壊によって実現されるはずでした。同時に選ばれたエリートとしての信者たちはこの予言の実現に手をかし、弥勒による救済を待たなければならないのです。

中国では、道徳総体が家族の義務の尊重に基礎を置いています。もし、家族間の義務が投げ捨てられれば、すべてが許されることになります。そのとき家族の代役を務める宗派は個人を完全な支配下に置きくのです。他の人々はすべての彼岸での地獄行きーこの世での非業の死ーを約束されます。402年のように役人達は細切れに切り刻まれ、、もし彼らの妻子がその肉を貪り食うのを拒みでもすれば、自分たち自身が手足を切り取られることになりました。1120年には、虐殺が数百万人にもおよび、いっさいの価値が転倒しました。1130年のある布告によれば、人々を殺すことは仏法(ダルマ)を実現させることと言われました。殺人は憐憫(れんびん)の行為であり、なぜなら精神を解放するからとされたのです。盗みは平等へと人々を引き寄せ、自殺は望ましい幸福であったのです。自分自身の死が恐怖に満ちたものであればあるほど、与えられる報いは大きくなるだろうと、言われました。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
暴力的伝統によるのか?

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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共産主義中国における抑圧政策はソ連における弾圧、、スターリンのやり方の複製だったのでしょうか?この体制による非業の死者の数を考えれば「イエス」という答えが導きだせます。

確実な推定によれば、直接的な犠牲者は600〜1000万人、さらに「反革命者」とよばれる人々が長い監獄制度の中で命を落とした者が、そそらく2000万人にのぼろうとされています。さらに、1959年から1961年にかけ「大躍進」と呼ばれた時期に、2000万〜4300万人にのぼる「過剰な死者」が出ました。この数字は毛沢東という一人の男の常軌を逸した帰途から生じた飢饉の犠牲者のことでした。最後に、チベット人がこうむったジェノサイドと呼んでもいい被害の規模も考えるべきでしょう。

これらと比較できる殺戮や飢饉を見出そうとすれば19世紀の第3・4半期まで遡らなければなりません。中国の歴史上での、この瞬間はそれ自体例外的に悲劇的な時期だったのです。

1949年以降、北京政権は諸国民のうち3分の2近くを統治し,1991年以降のソ連の消滅と東欧の非共産主義化の後には、10分の9に相当しました。雲散霧消したに等しい「現実の社会主義」の運命は、中国における共産主義の今後にかかっていたことは明らかでした。遡れば、中国は1960年の中ソ決裂以後、公然とマルクスーレーニン主義の「第二のローマ」の役割を演じていましたが、実質的には、長征の後、延安の『解放区」を確立した時期(1935年〜1947年)以来のことでした。朝鮮、日本、ベトナムの共産主義者はときとしてこの延安に避難しては新たな根拠を見出していました。

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