流水成道blog: 共産主義黒書<アジア篇>アーカイブ

共産主義黒書<アジア篇>のブログ記事 4 / 4

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1949年以前の時期において最も有名な粛清は、1942年6月に延安で最も優秀な共産党知識人を襲うことから始まりました。15年後に毛沢東が全国レベルで行ったのと同じように、まず2ヶ月の間きわめて大幅な批判の自由を許可しました。そして突然、すべての活動家は、男女平等の形式主義を告発していた丁玲(ていれい)と芸術家のために創造的の自由と権力にたいする意見具申の自由を要求していた王実味(おうじつみ)の二人に対して、「闘争する」よう「促され」ました。力つきた丁玲は自らをおとしめる自己批判を受け入れ、屈服しない王を攻撃しました。共産党を除名された王は投獄され、処刑されたのでした。1942年2月「文芸講話」の中で展開された知識人の政治への服従という教義は、以後、法律に等しい価値を持つことになったのです。

1943年7月、粛清は再燃しました。活動家たちを保護するという大義名文をもった「搶救運動」(そうきゅううんどう)の中心人物は、政治局員の康生(こうせい)でした。黒い馬に乗り、黒い犬を連れ、ソビエトのNKVDで教育された康生は共産主義中国で最初の本物の「大衆キャンペーン」を組織することができたのです。つまり、批判と自己批判の全面化、自白に至る選別的逮捕、殴打を内実とするキャンペーンであり、毛沢東の思想を高める運動でした。逮捕、拷問、死亡が広がり、毛沢東は「スパイは毛皮の毛の数ほど大勢いる」と断言し、党指導部が不安を覚えるほどでした。

それまで度々ありましたが、毛沢東は豹変して「われわれは誰一人ころしてはならない。大部分は逮捕されるいわれさえな買った人々だろう」と宣言しました。こうして運動は最終的に中断されたのです。1944年4月、毛沢東は高級幹部の集会で謝罪し、無実の犠牲者達を称えて三度頭を下げ、拍手喝采を浴びました。毛沢東はテロルで人気を失いはしましたが、その分だけ、人心に恐怖を植え付けたのでした。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
テロルと切り離せない革命(1927ー1946)

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo

共産主義体制の国々において、権力の暴挙は活動家が犠牲となった場合に大きな痕跡を残しました。最も弾圧の標的となった幹部は常に、彼らが活動していた地元の住民と最も絆の強い人々でした。彼らの敵は中央機関への従属度がより強く、相手の「地方主義」を糾弾したのでした。地方主義には、与えられた指令の当否を論ずることも含めて、ある種穏健な態度をとらせる要素がしばしばあったからです。

しかし、この対立の陰にはもう一つの対立が隠されていました。地元活動家は農民のなかの富裕層、特に急進的なナショナリズムに基づいて共産主義に行き着いた地主家族であることが多かったのですが、対して「中央の」活動家、「正規」軍の兵士といえば、その多くが体制の周辺に追いやられていた人々、社会の落伍者たちから徴募されていたのでした。盗賊、浮浪者、乞食、無給の兵士、女性だったら娼婦といった連中で、毛沢東はこの人々に革命において重要な役割を演じさせることを考えていました。「こういう人々は実に勇敢に闘うことができる。正しいやりかたで指導されれば、彼らは革命勢力となることができる」と。

残りの住人は、しばしばエリート層に属していた少数の断固たる反対派を除くと、農村における共産党の階級基盤とみなされた「貧農と下層中農」も含め、その受け身ぶりと「態度の冷淡さ」が特にめだっていました。ただただ共産党のおかげで社会的存在になれ、幹部に昇格した落伍者たちは、多かれ少なかれ漠然とした復讐心に燃え、「中央」の支持を背景に、最も過激な解決策に訴える自然発生的傾向をもっていたのです。1946年以後の土地改革をめぐる数々の暴走事件は、このタイプの矛盾から説明されます。

1930〜1931年の大きな粛清は江西省北部の根拠地でありました。国民党右派につながる政治警察組織、AB(アンチ・ボリシェヴィキ)隊の強力な活動によって深刻になりました。まず大勢の地元幹部が処刑され、ついで紅軍にも向けられました。捕らえられた後「党の皇帝」毛沢東にたいする反乱を起こそうとした幹部達は、交渉の席に呼ばれましたが、逮捕され殺されたのです。迫害は一年以上にわたり、大量の民間幹部と軍幹部が殺戮され、犠牲者の数は数千の規模に達したのでした。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
テロルと切り離せない革命(1927ー1946)

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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彭湃(ほうはい)は軍隊化した農村主義者の発案者でした。この方針は、農民の出身である毛沢東のが取り上げ、理論化されたのが有名な「湖南農民運動視察報告」(1927)です。当時、蒋介石の国民党の弾圧下に総崩れの状態にあった、都市的・労働者てきな共産党主義運動に代わる案として急速に力を得ていきました。そして、1928年位は「赤色基地」を建設するにいたり、1931年11月7日(ロシアの十月革命の記念日)に中華ソビエト共和国の成立が宣言されたました。そして、毛沢東は人民委員会の主席となったのでした。

革命の力学を国家の建設に集中し、さらには、本質的に好戦的なその国家を、敵の傀儡国家(この場合は蒋介石の指導する南京の中央政府のこと)とその軍隊に打ち勝つような軍隊を建設するのが目的でした。この点において、中国の場合は、ロシアの初期ボリシェヴィスムから遠く離れていますが、マルクス主義からはさらに遠いといえるのです。権力獲得と民族的・革命的国家強化の戦略へと単純かされたボリシェヴィスムを媒介することで、中国共産党の創立者達は共産主義にたどりついたのでした。このようにして中国共産党が勝利する所では、兵営社会主義(特別法廷と銃殺用射撃班)が存在することになりました。このモデルを提供したのが彭湃だったのです。

1936年から1938年のスターリンの「大テロル」より先に、中国のソビエトで大テロルがありました。推定では1927年から1931年のあいだに江西省だけで、戦闘によらない犠牲者を18万6000人も出したのです。大半は急進的土地改革、重税、軍事的必要による青年の動員などへの抵抗でした。住民のいだいた嫌悪感は根強いものだったのです。農民に課せられた税の負担は恐るべきもので、1941年には収穫の35%が天引きされ、これは国民党が保持する地域の4倍に相当したのです。村人たちは公然と、毛沢東の死を望むようになりました。共産党は抑圧を加えましたが、譲歩もせざるをえませんでした。つまり、阿片の栽培と輸出を行い基地の公的収入を賄ったのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
テロルと切り離せない革命(1927ー1946)

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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1928年1月、ある紅旗の村に彭湃(ほうはい)が指導していた中国における最初の「ソビエト」の部隊がやってきたとき、村民は熱烈な気持ちでソビエト政権に加わりました。共産主義者は演説によって地元民の憎悪をかきたて、最終的には、理路整然たる自分たちのメッセージを通じて、村民の心を獲得したのです。同時に、新参党員が残酷きわまる衝動に身をまかせることを認めたのでした。このようにして、文化大革命やクメール・ルージュ政権が最も荒れ狂った時期の予兆というべきものが、それより、4、50年も前に、1927年から1928年にかけての数ヶ月間に起こったのでした。

1922年以降、共産党が組織した農民組合が展開する煽動によって「貧農」と、弾劾される「地主」との極端な二極化へと到達していきました。借金の棒引きと小作制の廃止によって広汎な指示をかちえていたソビエトを参考に、彭湃(ほうはい)は「民主的テロル」の体制を確立するためにこれを利用したのでした。全人民は「反革命主義者」の公開裁判に招かれ、被告はいつも同じように死刑を宣告されたのです。人民は処刑に参加し、犠牲者を少しずつ切り刻む赤衛隊にむかって「殺せ、殺せ」と叫び、時にはその肉片を料理して食らい、あるいはまだ息絶えていない受刑者の目の前で、その家族に食べさせたのです。すべての人が宴会に招かれて、元地主の肝臓や心臓を分け合ったのでした。

のちにポル・ポトのカンボジアでも見られた、復讐のための人肉食(カニバリズム)の嗜好はは広く東アジアに行きわたっており、中国史でも極端な変動期にしばしば出現していました。たとえば、随王朝の煬帝は613年の高句麗侵略期にあたり最も遠い親戚までも迫害することで反逆者に復讐したのです。「最も重い処罰を受けた者たちは、四つ裂きの刑のうえ、機微を竿の上にさらされるか、四肢を切り取ったうえ、矢で射すくめる刑に処せられなければならなかった。皇帝は高官たちに、被害者の肉を一切れ一切れと呑み込むよう厳命を発した」偉大な作家であり、共産主義が民族主義・反西欧主義と一体化する以前異共産主義を賛美していた魯迅(ろじん)は書いています。「中国人は人食種である」・・・と。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
テロルと切り離せない革命(1927ー1946)

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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1927年4〜5月新政権の指導者蒋介石と地元の犯罪者集団かrなる秘密結社との同盟により数千人の共産主義者が処刑されました。アンドレ・マルローの「人間の条件」では共産主義者を機関車のボイラーに投げ込むような、ある種の処刑の残忍性について触れています。これら初期のエピソードは長征(1934〜1935年)と同様、大規模な殺戮を伴うものではなかったように思われますが、1937年〜1945年までの日本軍は、広大な中国の占領地域で無数の残虐行為を犯したのでした。

これらの行為よりも、はるかに多くの死者を出したのが1900年、1920〜1921年、および1928〜1930年の飢饉んでした。第二の飢饉は内戦による交通網の解体のためであり「虐殺」という言葉を使うことはできません。しかし、1942〜1943年にかけて河南の場合は収穫が壊滅的であったにもかかわらず、重慶の中央政府は減税を許さず、多くの農民が全財産を没収されたのです。農民達は無給のまま、長さ500キロメートルの対戦車壕の掘削のような夫役を課せられました。河南では内戦が口実になり得たとしても、農民の恨みは深かったのです。

間違いなく最も多数の死者をだした残虐行為はひっそりと展開され、ほとんど何の痕跡も残すことがありませんでした。それは、中国農村部という大洋のなかで、幹線からも遠く離れたところで、貧乏人が貧乏人にたいして行った戦いのことです。彼らは時には恐ろしい徒党を組んで、略奪し、恐喝し、身代金を強要し、抵抗する者を、人質を殺したのです。これらの盗賊たちが捕まると、農民達は嬉々としてかれらの処刑に立ち会ったのでした。

しかし、多くの場合、兵隊の方が盗賊よりさらに大きな災いだったのです。1931年福建省で2500人の兵士からなる部隊が、限度を超えた略奪と強姦を犯したため、憤激した農民のてで殺戮されました。1926年には湖南省西部の農民は、破れた軍閥の配下の「盗賊兵士」約5万を同じように処分したといわれています。1944年には、やはり同じ地方で日本軍が攻勢に転じた時、大勢の犠牲者をだした前年の夫役を思い出した農民たちは、敗走する兵隊を追跡し、時には生きながら埋めたのでした。死んだのは約5万人にのぼりました。とはいえ、この兵士さえも彼らを死刑にした農民と同じように哀れな連中でした。不運にも徴兵にとられ恐怖に怯えていた犠牲者にほかならなかったのです。アメリカのウェドマイヤー将軍の言葉を借りれば、徴兵制度こそ、飢饉や洪水と同じようにの村民に襲いかかり、自然災害以上の犠牲者を生み出したものだったのです。

その他おおくの反乱が起こりました。それらは土地税、阿片税、ブタの屠殺税、不正な裁判・・・など行政機関による収奪と感じられるものを目の敵にしていました。しかし、最悪の打撃は、しびしば農民自身が他の農民にむけて加えるものだったのです。村同士、氏族同士、残酷な戦いは田園を荒廃させ、消し難い憎悪を生み出したのでした。こうした抗争は、政治的なものでも、社会的なものでもなく、ただ、土地の小名士たちがこれによって支配を強化するだけのものだったのです。敵とされたのは移住者であり、川の反対側に住む人々にすぎなかったのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
暴力的伝統によるのか?

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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倫理的原理は超越的なビジョンから派生するのではなく、調和と社会運営の有効性とを重視するプラグマティズムから生まれるのです。これとは別に法家のプラグマティズムがあります。法家は孔子や孫子の同時代ですが、プラグマティズムは逆であり、社会を恫喝することで、国家がその全機能を確立する必要性を強調したものでした。秦の時代、法家思想は栄光の時期を迎えましたが、同時に社会を機能させる上での国家の根本的無効性を証明してしまいました。それは秦王朝が短命に終わったことでも明らかです。

秦の始皇帝(紀元前221〜210年)が、460人の知識人と行政官が生き埋めにしたこと、すべての古典文献を焼き払わせたこと、約2万人の地方貴族に死刑ないし流刑を言い渡したこと、万里の長城建設の為に何万人もの生命を犠牲にしたことは確かです。(毛沢東が秦の始皇帝をモデルとしたのも明らか)反対に漢王朝(紀元前206〜紀元220)になると儒教が力強い復活をとげ、暴政や頻繁な殺戮を経験することはなくなりました。秩序は厳正で、裁判は厳格であり、中世・近世ヨーロッパ諸国と比較しても人命はむしろよく保証されていたのです。

唐王朝(618年 - 690年・705年 - 907年)になってからの645年には人道的な刑法が公布されていました。反乱時の家族の連帯責任を問うことの廃止や、死刑執行の手続きが複雑で時間の掛 かるものになり、同時におぞましい刑罰が廃止されたのです。そのうえ、上訴の制度も設けられました。先のタイプの権力の恣意性は北宋王朝(960〜 1127年)移行は次第に少なくなっていったのです。

1850年の中国の人口は4億1000万人でしたが1873年には3億5000万人に減少しました。数々の大反乱・西洋帝国主義による度重なる侵略・窮乏化した人々の絶望の増大などを特徴とする激しい混乱期だったためです。太平天国の乱とその鎮圧(1851年〜1868年)の時は2000万〜1億の死者を出したとされていますが、意図的に殺戮されたのは、およそ100万人前後でした。共産主義革命家の登場に先立つ先行世代の生きた時代は、稀なレベルの暴力と価値観の崩壊に慣れていったのです。

しかし、20世紀前半の中国には毛沢東主義の猛威を予告するような要素はほとんど無かったのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
暴力的伝統によるのか?

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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これら残酷な千年王国運動(ユートピアの性急な実現を求める運動)を20世紀のアジアの革命運動と比較しないですますのは難しいでしょう。前者は、なぜ時として運動が勝利しえたのか、なぜ運動にともなう暴力が多くの人に正常で当たり前に見えたのか、を理解する助けになるのです。

地方の隅々まで教えられていた公式の教義である儒教は、恩恵を君主の基本的な徳とし、家族になぞらえて国家を形成しよとした。人間主義的な諸原理と呼んでも決して時代錯誤にならないこの態度から、虐殺に訴えることは厳しく退けられ、人間の命に高い価値が付与されていたのです。この事情は時代を遡っても変わらないのです。墨子(紀元前479〜381年頃)は「一人だけの殺人が犯罪とされる一方で、複数の殺人、たとえば、他の国を攻撃するような多数者の殺人が善行として賞賛されるとすれば、善悪の区別を知るなどと呼べるだろうか?」と断罪しました。

孫氏の「兵法」(紀元前500年頃)によれば「戦いは火事のようなものだ。武器を置こうとしない者は武器によって滅びる」とされています。経済的に、可能な限り短期間だけ戦い、流血を最小限にとどめるのがよい。「持久戦がいずれの国にせよ利益をもたらした例はかつてみられたことがない・・・百戦百勝は最高の技量ではない・・・敵を打ち負かすのに秀でた者は、敵の脅威が具体化する前に勝利を収めるものだ」敵軍を全滅させようと懸命になってはならない。「敵軍を捕虜にすることは敵軍の絶滅に優る・・・殺人を勧めてはならない」殺戮と残忍な行為は敵に憎悪と絶望的なエネルギーとを呼び起こすばかりであり、敵はそれを利用し、状況を有利な方向に転換させうるかもしれない」さらにこうも言っています、「最良の政策とは、国家を無償のまま奪い取ることである。国家を滅ぼすことは次善の策でしかない」と。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
暴力的伝統によるのか?

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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歴史上中国が血なまぐさい衝動に駆られたのは、世界の他の地域と同じように宗教という媒体を利用して起こされたものでした。中国の2つの偉大な伝統である、儒教道教を隔てるのは、理論的相違、あるいは項目ごとの対立というよりむしろ、孔子の側は社会と合理性を強調し、道教の提唱者である老子のほうは個人と直感性、感性、さらに言えば非合理性を強調したところにありました。ほとんどの中国人のなかでこの2つの中国的性格の面が共存しているのです。

画像:Wikipedia

 

危機が訪れる瞬間には、最も恵まれない人々や、最も窮地に立った人々のあいだでは道教が優位を占めて、儒教の拠点である知識人のピラミッドにほかならない国家へ攻撃を仕掛けることがありました。終末思想と救世主思想をいだく宗派に触発された数多くの反乱がです。歴史上では、184年の道教の影響下にある太平道によるの黄巾の乱、515年の法慶を指導者とする弥勒教徒の反乱、1120年の方臘を指導者とするマニ教徒の反乱、1351年の白連教の乱(紅巾の乱)、1813年の八卦教の乱(天理教(奈良の天理市にある天理教とは別物)=白連教の一派)など。これらの運動は似かよっていて、道教と民衆仏教の混淆(こんこう)形態をとり、弥勒をしばしば前面に押し出しています。この未来の仏陀は贖罪主として到来するのですが、これは「旧世界」の全面的破壊によって実現されるはずでした。同時に選ばれたエリートとしての信者たちはこの予言の実現に手をかし、弥勒による救済を待たなければならないのです。

中国では、道徳総体が家族の義務の尊重に基礎を置いています。もし、家族間の義務が投げ捨てられれば、すべてが許されることになります。そのとき家族の代役を務める宗派は個人を完全な支配下に置きくのです。他の人々はすべての彼岸での地獄行きーこの世での非業の死ーを約束されます。402年のように役人達は細切れに切り刻まれ、、もし彼らの妻子がその肉を貪り食うのを拒みでもすれば、自分たち自身が手足を切り取られることになりました。1120年には、虐殺が数百万人にもおよび、いっさいの価値が転倒しました。1130年のある布告によれば、人々を殺すことは仏法(ダルマ)を実現させることと言われました。殺人は憐憫(れんびん)の行為であり、なぜなら精神を解放するからとされたのです。盗みは平等へと人々を引き寄せ、自殺は望ましい幸福であったのです。自分自身の死が恐怖に満ちたものであればあるほど、与えられる報いは大きくなるだろうと、言われました。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
暴力的伝統によるのか?

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

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金日成政権の存在をソビエトの占領に負っていたとしても、政権が延命できたのは朝鮮戦争の間の100万人にのぼる武装した中国人「志願兵」の介入によるものでした。北朝鮮の抑圧方式はスターリン「モデル」を借りていますが、ピョンヤンの主人は、毛沢東主義からは「大衆路線」と、社会管理の主要手段としての「生涯教育」を取り入れました。金日成は毛沢東を敷衍(ふえん)して「大衆路線とは、勤労大衆の利益を積極的に守ること、党の周囲に集結する彼らを教育し、また再教育して、党の周囲に結集させること彼らの力に依拠すること、そして革命的任務の達成のために彼らを動員することにある」と断言しています。

1949年以降成立したアジア共産主義体制にたいしての、中国共産主義の影響は目覚ましいものがあります。北京に移り住んだベトナムの指導者ホアン・ヴァン・ホアンの回顧録によると、1950年からジュネーブ協定調印(1954年)までのあいだ多くの中国人顧問がベトミンの軍隊や行政機関に配置されており、また、約3万人の工兵が1965年〜1970年までの間、北ベトナム軍部隊の交代要員をつとめていました。1964年ヴォー・グエン・ザップ将軍は間接的な表現で中国軍の関与を認めています。「中国の勝利の後、1950年以降、我が軍と我が人民は中国人民解放軍から貴重な教訓を引き出すことができた。われわれは毛沢東の軍事思想のおかげで自らを教育することができた。それは、我が軍の成熟度を規定し、相次ぐ勝利に貢献した重要な要因だった」当時労働党と呼ばれていたベトナム共産党はお返しとして1951年に党の規約に「労働党は、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンの理論と、ベトナム改革の現実に適用された毛沢東の思想とを、党思想の理論的基礎そ、また党の全活動の方向性を示す磁針と認める」と書いています。チンフアン(整訓)は1950年代半ばの冷酷な粛正を支配することとなったのです。

1975年〜1979年のカンボジアにおけるクメール・ルージュも北京からの強力な援助を受け、毛沢東が失敗したことを成功させようと試み「大躍進」神話を採用しました。これらの政権は好戦主義的起源の跡を強くとどめ、ついには社会の恒常的な軍隊化を結果するほどでした。時に直接的弾圧の任務まで与えられることが特徴として挙げられます。

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参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国

共産主義中国における抑圧政策はソ連における弾圧、、スターリンのやり方の複製だったのでしょうか?この体制による非業の死者の数を考えれば「イエス」という答えが導きだせます。

確実な推定によれば、直接的な犠牲者は600〜1000万人、さらに「反革命者」とよばれる人々が長い監獄制度の中で命を落とした者が、そそらく2000万人にのぼろうとされています。さらに、1959年から1961年にかけ「大躍進」と呼ばれた時期に、2000万〜4300万人にのぼる「過剰な死者」が出ました。この数字は毛沢東という一人の男の常軌を逸した帰途から生じた飢饉の犠牲者のことでした。最後に、チベット人がこうむったジェノサイドと呼んでもいい被害の規模も考えるべきでしょう。

これらと比較できる殺戮や飢饉を見出そうとすれば19世紀の第3・4半期まで遡らなければなりません。中国の歴史上での、この瞬間はそれ自体例外的に悲劇的な時期だったのです。

1949年以降、北京政権は諸国民のうち3分の2近くを統治し,1991年以降のソ連の消滅と東欧の非共産主義化の後には、10分の9に相当しました。雲散霧消したに等しい「現実の社会主義」の運命は、中国における共産主義の今後にかかっていたことは明らかでした。遡れば、中国は1960年の中ソ決裂以後、公然とマルクスーレーニン主義の「第二のローマ」の役割を演じていましたが、実質的には、長征の後、延安の『解放区」を確立した時期(1935年〜1947年)以来のことでした。朝鮮、日本、ベトナムの共産主義者はときとしてこの延安に避難しては新たな根拠を見出していました。

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