流水成道blog: 共産主義黒書<アジア篇>アーカイブ

共産主義黒書<アジア篇>のブログ記事 1 / 4

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左翼的な混乱と、右翼的な秩序のどちらかをとるのかという残酷なジレンマの前に毛沢東は優柔不断でした。党の諸委員会は信用を失っていたので、絶対に正しい解釈というものはありませんでした。したがって、露ほども信じたくない中央の、真の意図をめぐって果てしない混乱が支配することとなりました。シーソーゲームが続く以上、やがて誰もがいつの日かとげるべき血まみれの復讐心を抱くようになったのです。

民主的に仲裁されることがない小グループの利益と個人的な野心の結果、絶えず新たな分裂をうみだすこととなりました。その間「政治屋」は新しい権力と一体化する形で、特に人民解放軍の地方参謀との関係を育てることで、自己の影響力を強化しようとしていました。彼らの多くは結局四人組と結びつくことになり、省レベルの小暴君へと変質しました。分派闘争は少しずつその政治的性格を失い、権力の座にある者と、それに取って代わりたい者のあいだの対決に帰着するようになっていきました。

共産主義中国では、告発する者が常に正しい。なぜなら告発者は、毛語録の引用文とスローガンとで身を固めているからです。その結果、被告発者は、自己弁護をすればするほど、一方的に立場を悪くするばかりでした。結局のところ、すべては政治的なのだから、最も些細な偶発事でも最悪の犯罪的意図の証拠として誇大に解釈される事になるのです。その結果、肉体的抹殺のよる判定なのです。

5月千葉イベント実行委員の紹介

 

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 【緊急開催!】5月千葉イベント

台数に限りがありますが、ガイガーカウンタがあります。
公園、小学校など、土をお持ちください。

■日時:5月29日 13:00から2時間
■参加費:500円
■場所:千葉県船橋市

1. 政府発表は信用できない!
実際、ガイガーカウンターで計測してみると、政府発表と、実測データに大きな乖離が・・・。

2.東電福島第一原発事故が及ぼす健康への影響
-低線量被曝の影響から子供達を守るにはー

3.被曝圏内から離れる場合
避難経験者の生の苦労話など、生の声。

4.被曝圏内から離れられない場合
風向きや雨にも注意。見えない放射能を見えるように。

申込み受付:下記、メールアドレス宛に氏名、連絡先、参加人数をご記入のうえご連絡ください。
メールは、nozomu.m@gmail.com まで。
 
なお、件名は、「【5月千葉イベント】」と記載ください。
(会場の収容人数に限りがあります。申し込みはお早めに!)

※イベント前までに定員になった場合は、当日参加できない場合があります。
※当日の内容に、若干の修正が入る場合があります。
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1967年1月に上海から、ほぼいたるところで都市機関と党委員会があっさりと転覆されました。批判の時期は終わり、統治することが課題となったのです。それとともに、破滅的な事態も始まりました。競合する造反グループ同士のあいだで、学生と労働者、常勤労働者と日雇い労働者のあいだで緊張が高まり、都市全体を巻き込むほどの激しい衝突を引き起こすことになりました。

勝利を目前にしていたはずの毛沢東主義指導者はこの事態に怯えました。工業生産は崩壊し、行政機関は姿を消し、毛派指導者の手にも負えなくなった諸グループが権力の座についたからです。1月末以降、毛派指導者は、造反派と旧幹部と人民解放軍と同盟しあらたな権力構造としての革命委員会を推進し、同時に人民解放軍を使って、紅衛兵を退場に追いやることを選択しました。

毛沢東主義者の紅衛兵が追い風を受けると、無政府状態に向かう暴力と分派闘争の嵐が荒れ狂うようになりました。9月になると人民解放軍に武器を使ってもよいという許可が発せられました。衝突は拡大し、多くの人命が失われ、7月には造反派に決定的に死刑が宣告されたのでした。

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 【緊急開催!】5月千葉イベント

台数に限りがありますが、ガイガーカウンタがあります。
公園、小学校など、土をお持ちください。

■日時:5月29日 13:00から2時間
■参加費:500円
■場所:千葉県船橋市

1. 政府発表は信用できない!
実際、ガイガーカウンターで計測してみると、政府発表と、実測データに大きな乖離が・・・。

2.東電福島第一原発事故が及ぼす健康への影響
-低線量被曝の影響から子供達を守るにはー

3.被曝圏内から離れる場合
避難経験者の生の苦労話など、生の声。

4.被曝圏内から離れられない場合
風向きや雨にも注意。見えない放射能を見えるように。

申込み受付:下記、メールアドレス宛に氏名、連絡先、参加人数をご記入のうえご連絡ください。
メールは、nozomu.m@gmail.com まで。
 
なお、件名は、「【5月千葉イベント】」と記載ください。
(会場の収容人数に限りがあります。申し込みはお早めに!)

※イベント前までに定員になった場合は、当日参加できない場合があります。
※当日の内容に、若干の修正が入る場合があります。
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紅衛兵のいかなる証言をみても、弾圧の慣行が大きな場をしめており、床に殴り倒され見せしめにひきまわされ、侮辱され、時には暗殺までされたという言及が多かったこと、しかも、誰も反対する者が出てきた形跡はありませんでした。また、文化大革命の時期の特徴として、元受刑者の再収監や、一度は取り消された右派分子のレッテルが貼り直された事実や、さらには死んだ父親の刑の残余期間を娘が勤めなければならないというような破廉恥な措置まで見られたことは特徴的でした。

毛沢東の思想は曖昧で、その言葉にはあまりに矛盾が多く、守旧派も造反派も毛沢東語録の引用文を十分に備えていました。文化大革命下の中国では、乞食が、相互扶助に関する毛沢東の一文を使って、盗みを正当化することができました。なぜなら、「労働者階級は万事においてその指導性を行使すべき」だったからです。

毛思想には、暴力の神格化と階級対決の過激性と、それらの政治面への延長という特長がありました。正しい路線の保持者にはすべてがゆるされ、造反派は公式のプロバガンダから距離を取ることさえできなかったのです。

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 【緊急開催!】5月千葉イベント

■日時:5月29日 13:00から2時間
■参加費:500円(当初予定の半額に致しました)
■場所:千葉県船橋市

1. 政府発表は信用できない!
実際、ガイガーカウンターで計測してみると、政府発表と、実測データに大きな乖離が・・・。

2.東電福島第一原発事故が及ぼす健康への影響
-低線量被曝の影響から子供達を守るにはー

3.被曝圏内から離れる場合
避難経験者の生の苦労話など、生の声。

4.被曝圏内から離れられない場合
風向きや雨にも注意。見えない放射能を見えるように。

申込み受付:下記、メールアドレス宛に氏名、連絡先、参加人数をご記入のうえご連絡ください。
メールは、nozomu.m@gmail.com まで。
 
なお、件名は、「【5月千葉イベント】」と記載ください。
会場の収容人数に限りがありますので、申し込みはお早めに!
(6日から連日、参加申し込みが入って来ています!)

※イベント前までに定員になった場合は、当日参加できない場合があります。
※当日の内容に、若干の修正が入る場合があります。
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暗黒の伝説によれば4人組の失脚以後の中国では、紅衛兵は、政治的冒険一味のファシスト同然の助手たちだったと見なされています。現実のありようはこれと全然異なるものでした。「造反派」自身は自らを、民主主義やアナーキズムなどのいっさいの理想と全く縁のない、良き毛沢東主義的共産主義者と考えていました。この数千万の若者の巨大なエネルギーはひたすら破壊的なだけに終りました。彼らが権力を掌握しえた期間は短かったですが、彼らは権力をてにつけるようなことは厳密に何一つしなかったし、既存の全体主義の基本原則をいかなる点でも修正しませんでした。

紅衛兵は多くの絆で共産党期間に結びついていました。紅衛兵の最初のグループの活動にはずみをつけたのは、劉少奇派とそれに従属する省指導部によって主な学校施設に派遣された工作組でした。公式には撤退をさせられたものの、引き続いて現場に対する影響力を保持し、工作組は、教授や教育幹部に対する暴力の行使を刺激して、四旧打破運動への道を開いたのです。この運動でスケープゴーととなったのは、以前のキャンペーンで常に闘争の対象とされた人々であり、それに加えて、真の権力保持者を救うために犠牲にされてた中堅幹部でした。

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 【緊急開催!】5月千葉イベント

■日時:5月29日 13:00から2時間
■参加費:500円(当初予定の半額に致しました)
■場所:千葉県船橋市

1. 政府発表は信用できない!
実際、ガイガーカウンターで計測してみると、政府発表と、実測データに大きな乖離が・・・。

2.東電福島第一原発事故が及ぼす健康への影響
-低線量被曝の影響から子供達を守るにはー

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避難経験者の生の苦労話など、生の声。

4.被曝圏内から離れられない場合
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申込み受付:下記、メールアドレス宛に氏名、連絡先、参加人数をご記入のうえご連絡ください。
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なお、件名は、「【5月千葉イベント】」と記載ください。
会場の収容人数に限りがありますので、申し込みはお早めに!
(6日から連日、参加申し込みが入って来ています!)

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※当日の内容に、若干の修正が入る場合があります。
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5月千葉イベント:5月29日開催!

1966年に行われた迫害は文化大革命全体のシンボルとして残りました。しかし、この迫害は流血を観ることが少なく、ほとんど革新的な点もありませんでした。この運動のセンセーショナルな側面は、確かに紅衛兵を媒介とするトップレベルの幹部間での意趣返し(仕返しをする)であり、共産党幹部の粛清でもあったのです。

紅衛兵の暴虐行為のシナリオは、都市部と大学に関する限り中国の端から端まで悲しいほど似ていました。何百万という生徒や学生たちが組織され、自分たちの教授や大学の責任者、ついでにその連中を守ろうとする市や省の当局者のなかに「敵」として追及されました。人間としての尊厳を失わざるを得ないような行為を強要されたのです。1967年8月、北京の新聞は、反毛沢東主義者は「道路を走り回るネズミだ。奴等を殺せ、奴等を殺せ」と罵倒しました。

人間を人間ではなくする慣行は1949年の土地改革時代から見られたものでした。農民達は「お前はわれわれをけだもののように扱ったからな。今度はお前が俺たちのけだものになる番だ」と地主を鞭で打ちながら土地を耕すように強いたのです。何百万と殺戮され、なかには食われてしまった者さえいました。

この紅衛兵達の最大の動機がさしあたり何であったかは分かりません。かれらは、社会変革への現実的欲求から出発して絶えず漂っているようにも見えました。面倒な問題を避けたがる体制順応主義的な慎重さを示したこともあります。

文化大革命の初期、生徒と学生は教育に関する毛沢東の文章の小さな要約書を持たされていましたが、そのなかで毛沢東は教授の知識を「五穀の区別もできない」と断罪し、また、「彼らは学べば学ぶほど、それだけ馬鹿になる」とも言いました。さらに学業の短縮と、試験による選別の廃止を説き、大学は「専門家」でなく、紅類を養成すべき、とも言っています。

何百万という黒類の家族に取って最も辛いのが紅衛兵の家宅捜査でした。自分自身たちの組織のため、あるいは自分たち自身のための金銀の回収と、純然たる破壊行為との区別がつかない形で、彼らは家財の全部、あるいは一部を破壊し、略奪し、没収もしました。侮辱と罵倒と殴打はほとんど日常茶飯事だったのです。こういう状況のもとでは殺人の多くが自殺のようにカモフラージュされました。

行政機関内部での「捜査」はさらに大規模であり大量の死者をだすことさえありました。公安部の粛清の際に役1200人が処刑され、中央委員会のメンバーの60%が追放され、党の全省書記の4分の3が追放されました。文化大革命の時期に300から400万にのぼる幹部が投獄され、40万人の兵士が同じく投獄されました。知識人の多く、教師や技術者、医学教授、作家や芸術家が迫害され、殺されるか自殺へと追い込まれたのでした。

これら若者が、社会の他の階層からの支援もほとんどないまま、いとも簡単に、党の高位の責任者達を攻撃しえたという事実は驚かされます。働き口が無く、例え人を殺しても絶対に罰せられない保証を持ち、公式のメディアから絶えず激励を受けていた彼らに、いったい誰が抵抗できたのでしょうか?

 

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
文化大革命:アナーキーな全体主義(1966〜1976)

共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo

「黒五類」の出身者である彼らは、自分たちの労働や価値や大望にふさわしいポストをいつの日か手に入れるような現実的なチャンスを与えられないことに欲求不満を抱いていました。このような結果から「黒五類」が学生のなかの多数派を占めていたエリート的な学校こそが、しばしば最も革命的となったのです。それで「紅衛兵」が「生まれの悪い人々」にも正式に拡大されることが1966年10月1日に中央文化革命小組によって布告されました。

紅衛兵グループの結成が許可されると、この運動は決定的な拡大をみせました。この機会に、文化大革命の初め以来、労働者に押し付けられていた否定的な政治的評価のすべても取り払われたのです。名誉回復された人々は、「右派分子」など貼られたすべてのレッテルの取り消しと、身の上記録が記入された秘密のカードの破棄を勝ち取ろうとしました。

また、その時、2種類の工業労働者が大挙して学生と高校生の群れに加わりました。1つめのカテゴリーは、年齢の如何にかかわらず、「後進的分子」と、政治的基盤に基づくその他の被差別者であり、もう一つのカテゴリーは雇用の保障も、労働組合の保護も無い、季節労働者と日雇い労働者でした。後者は概して若く、新しい大工場のプロレタリアートの多数を形成しており、給料の値上げと恒常的契約を要求していました。これに加えて、急速な昇進の機会をうかがう一握りの若い幹部や、かつてなんらかの理由で処罰を受け、報復心に燃える責任者や、さらに、いつもその時々のオオカミと一緒に吠えたがる(真っ先に裏切るのも彼らだ)日和見主義者などの連中もあげることができます。要するに、すべての権力の攻撃に乗り出した不満分子の雑多な連合ができあがったのです。

しかし、彼らは都市住民の20%程度の少数はであり、彼らが成功しえたのは、国家が中央部の攻撃によって麻痺させられた場合と、人民解放軍が中央の指示によって厳しく規制された場合とに限られていました。結局のところ、革命を後方から動かしていたのは毛沢東だったのです。その毛沢東ですら、力関係のめまぐるしい変化や、地方による多様な状況や、さらに反抗と帝国の維持、この双方の折り合いをつけようとする彼のたえざる探求を考慮すると、時には何をすべきかわからないことがあったほどでした。「造反派」がひとたび「権力を獲得すると」、彼らの内部矛盾や利己的な野望がただちにむきだしになって前面に出、そこから、何々に反対としか自らを規定出来ない分派間の容赦ない闘いが引き起こされたのでした。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
文化大革命:アナーキーな全体主義(1966〜1976)

共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo

中央機構内部にあり大躍進の破滅的失敗に見舞われた毛沢東は、1962年以降、国の実質的指導を劉小奇・共和国主席に譲らなければなりませんでした。党主席という、威信だけはある地位に追い込まれた毛沢東は、生きながら疎外された存在へになることを恐れ、自分の根本的な選択を押し通す役割を演じられる有能な仲介役を探していました。毛沢東は、1957年の粛清の時に幹部と知識人の大半の支持を失い、また、1959〜1961年の飢饉の際には多数の農民の支持をも失ったことを意識していました。しかし、共産主義中国のような国では、受け身な多数派、一人一人がバラバラで、おびえている多数派というものは、戦略的一に陣取った活動的な少数派に比べれば大した存在ではありませんでした。

1959年以降、人民解放軍は「偉大な舵取り」に忠誠を誓う林彪(りん・ぴょう、リン・ピャオ、1907年12月5日 - 1971年9月13日)に指揮されていました。軍事訓練は学生にとって義務となり、武装民兵は1964年以降、人民解放軍により工場、街区、農村地区に組織ないし再編成されました。軍隊は、当時も将来も、決して権力に取って代わる組織ではありませんでした。しかし、毛沢東にとって軍隊は、彼の「生命保険」であり、あるいは彼自身が述べているように彼の「万里の長城」だったのです。また、毛沢東が頼りにしていた戦略的な要素とは、中等教育、高等教育、および職業教育学院に就学していた世代でした。彼らは都市部、とりわけ最大規模の市に集中しているとい強みがありました。都市部こそ、権力の為の闘争が展開される場所となるだろうからです。

1949年の革命後にまるごと教育された最初の世代である彼らは、まだ若く、あまりにも都会的で、大躍進の惨禍について何も知りませんでした。この世代は毛沢東に「真っ白なページ」であると説明され、「世界は君たちのものだ。中国の未来は君たちのものだ」と保証されたので、紅衛兵の歌の歌詞どおりに「党は我が母、我が父」で有ることを早くから知っていました。そして、万が一親子関係にもめ事が起こった場合でも、選択は明快で、生みの両親を否認すべきものでした。

しかし、同時に小さなロボットとしてふるまうように仕込まれた若者たちは、親の世代から革命家や戦士としての武勲を聴かされていた為に、自分ではヒロイズムを発揮できない不満を感じていました。そのため、1966〜1968年の対決の際に、長征や、抗日ゲリラなどを進んで模倣する行動にでることになるのです。マルクス流に言えば、もう一度、しかし今度は喜劇の形で、歴史は繰り返されようとしていたのです。

@今回の橋前勇悟の金融時事経済の内容は「ハイパーインフレ」でした。いつも判り易く説明されているので、経済が苦手という方にもお勧めです。さらに、橋前氏は毎週、秋月便りで経済コラムを執筆されているのですが、ラジオでは放送できない内容なども記載されているので、今後の経済について気になる方は是非「秋月便り」も購読してみましょう。

 

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
文化大革命:アナーキーな全体主義(1966〜1976)

共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo

1966〜1967年に最もラジカルな集団自身、最も公然と国家体制を攻撃した諸集団自身は、常にその片足を国家の中に置いていました。国家の中の保証人として毛主席がおり、中国の根強い伝統に従って、反抗においてまで権力の論理を組み込んでいたのでした。

文化大革命のあいだ中、何度も見られたのは下部の上部に対する戦いでしたが、ここでいう下部とは、自分の実名を名乗らない権力エリートによって動員され、操作され、分割され、恐怖に陥れられていたそんざいです。批判や打撃を相手に浴びせながらも、絶えず相手を模倣することをやめない、権力自身による権力による乗り越えこそは、毛沢東主義の決定的スタイルでした。これは、反抗と帝国という対の概念を、国家と社会を超越した政治過程創始のための代案なるものの永久原理にしてしまいましたが、成り立つはずのない代案でした。なぜなら、反抗に意味を与えた人々の欲求不満の上に基づいていたからです。

魏京生は彼の自伝のなかで、正当な不満から噴出した運動の、致命的な矛盾に光をあてています。政府をよりよく守るためにしか政府に対して立ち上がらない人民。人民は彼らを隷属させてきたヒエラルヒー制度に反対はしたけれども、この制度の創始者に支援の旗を振りながらのことだったこと。また、民主的な権利は要求したけれども、民主主義に軽蔑の支援を投げながらのことだったこと。そして、権利獲得のための闘いにおいて、独裁者の思想の言いなりになることを望んだということ。


文化大革命は「大衆キャンペーンであるより、はるかに深い意味でもう一つの革命でした。(模倣された、道をはずした、擬似的な革命という意味いおいて)文化大革命は3つのおおきなカテゴリーに分けられます。

①知識人と政治幹部に対する暴力行為(1966〜1967年)
②紅衛兵同士の分派闘争(1967〜1968年)
③軍隊によって実行された手荒な整頓工作(1968年)

以降は共産党第九回大会(1969年)とともに毛沢東の後継をめぐり宮廷闘争がはじまり、急激な展開が相次いで起こりました。1971年9月に後継者として公式に指名されていた林彪が排除され、1973年には鄧 小平が副総理職に返り咲き、1974年には指導機関内「左派」の攻勢がありました。1976年「上海4人組」による中枢部掌握の企てが有りましたが、同年10月以降、四人組は収監されてしまいました。そして、以後2年にわたり国の支配者となった華国鋒(かこくほう)は、文化大革命の終焉を宣言することができたのです。

文化大革命は、中国現代史の他のエピソードにもまして世界中に衝撃を与えました。言説といくつかの行為の極端なラジカリズムととともに、革命の舞台が都市部であり、政治家や知識人の階層に凝宿して現れたものでした。しかも、文化大革命はテレビの時代にふさわしく、熱情に溢れた数々の政治的儀式の見事な映像を世界に提供しました。革命は、それまでの諸運動と違って、終結するとほとんど同時に、中国自体においても公式に断罪され始めました。古くからの共産党の幹部や指導者に対する紅衛兵の暴虐ぶりを告発することは常套句となりました。もっとも、その直後の「秩序」への復帰段階において人民解放軍が犯した虐殺にこだわることは明らかにそれほど歓迎されませんでした。

文化大革命の第一の逆説は、最も熱狂的な過激主義が、成功の一歩手前まで達したように見えたとき、(わずか1年ちょっとでほとんどすべての権力中枢を一掃し、強固に制度化したように思われていた革命過程の再出発の瞬間においてさえ)文化大革命は都市部に部分的運動として、ただ青少年学生のあいだでのみ覇権をふるう運動としてとどまっていたという事実です。これに反し、当時核武装に専念していた科学研究にも、農民階級にも、軍隊にも手をつけないことが「中央文化革命小組」自身によって決定されました。これはより高く飛躍する為の一歩後退でした。つまり、社会および国家のいかなる部門も、本来は革命化を永久に免れてはならないということです。しかし、農村住民の大部分は「ささやかな自由」と自留地とに固くしがみついていました。また、防衛能力を破壊することも、経済を破壊することも問題外でした。最近の大躍進の経験に照らし合わせても、後者の点について彼らは慎重でした。前提となるのは、知的・芸術的「上部構造」内の権力奪取であり、国家権力の征服だったのです。しかし、この目的は達せられることはありませんでした。

1950年代の粛清とは大きく違って、特定の住民層を一掃するという目的が打ち出されたことは一度もありませんでした。最も犠牲者が多く出たエピソードは、全体としては「失態」の結果、すなわち、総体的計画もない、地域的規模での比較的自然発生的な暴力の結果、生じたものでした。土地改革よりも、すでに1989年6月の弾圧(第二天安門事件)に近いといえます。おそらく文化大革命は、革命的エネルギーを失った中国共産主義の行き詰まりの最初の兆候として残るに違い有りません。

 

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
文化大革命:アナーキーな全体主義(1966〜1976)

共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo

毛沢東の警察は尋問方法に磨きをかけ、誰もが抵抗しようがないほどの洗練度に達していました。彼らの目的は、ありしもない犯罪を囚人にあげさせることよりも、腐敗し、有罪であり、処罰に値すると囚人に認めさせることにありました。囚人にはいかなる弁護の手段もありませんでした。なぜなら、逮捕されたことが、彼の有罪性の議論の余地のない絶対な証拠だからでした。

判決が言い渡されると、受刑者は労働収容所に送られました。まず、12時間続く重労働に耐えられる能力を採点され、その労役は、拘禁センターと同じく日に2回の粗末な食事しかでないため、一層消耗の激しいものでした。「高成績労働者」への食料配給制を設け、労働成績は監房や大部屋のレベルでも考慮の対象となりました。そのため、幹部層の最大幸福のために、だれが一番働くかという(16時間、18時間ぶっづけで)集団競争がはじまることになりました。

衣類は逮捕されたときに着ていたものをその後何年間も着ているのが普通でした。冬の上着は中国のシベリアともいうべき満州北部の収容所でしか支給されませんでした。食料の平均配給量は、月に穀物12キロから15キロのあいだでした。これは、王政復古時代のフランスの徒刑場より、ソビエトの収容所よりも少なく、1975〜1977年のベトナムの収容所とほとんど同じだったのです。そのため食料泥棒が横行する一方、農場では「自主的食料補給(たとえばネズミを乾燥させて食べる)」が行われました。医療は最低限度しか存在せず、虚弱すぎるもの、高齢過ぎる者、助かる見込みの無い者は収容所へと送られ直ぐに死んでいくのでした。

受刑者がたどった軌跡は、国がたどった軌跡に合致しました。受刑者が「労改システム」と呼いう生活の場で経験を積んで行くに連れて、システムの独創性であるあずの再教育を強調する面は、次第におろそかになっていったのです。受刑者のあいだにますます頻繁に暴力団が組織されていくうちに、中央機関の支配力は少しづつ緩んでいきました。幹部は服従とヒエラルキーの尊重を、自分の側が譲歩するか、あるいは新たに暴力を行使して、勝ち取らなければなりませんでした。

一方的には、自分を今以上の者に高め、向上をはかり、身を清めて、輝かしい未来をめざして前進するプロレタリア大衆に加わるという呼びかけがあり他方には、どんなに努力しても、囚われの身で生涯を過ごすという現実がありました。自己改善可能性にかんするかなる言説も、運命に支配された社会の過酷さを隠しきることはできませんでした。これと同じ、耐え難く非人間的な矛盾こそが、文化大革命という社会の内的爆発を引き起こし、さらには、矛盾が解決されないがゆえに、大革命の失敗をもたらすことになったのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
労改(ラオガイ)ー隠された<グラーグ>

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