【沖縄決戦】団塊ジュニアの苦悩と試練【その10】 - 流水成道blogの続きです。
台湾に行くにあたって、李登輝氏の本をいくつか読みました。その中の、「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは
の書評を書かせてもらいます。

いま、なぜ武士道か
それは、このような危急存亡のときにこそ一人一人の社会の成員が「生き方の心得」を再認識し再点検しなければならない、と固く信じているからにほかなりません。この大命題を自他ともに厳しく問いつめなければ、とても国家や国民の未来は見えてこない、と確信しているからこそです。
特に、これからの日本を背負っていかなければならない若い人々は未来への指針を失いがちのように思えてなりません。そして、その大部分の責は確固たる姿勢と信念を見せてこなかった大人たちが負うべきだ、と私は思います。なぜなら、子供は親の背中を見て成長するからです。戦後社会の混乱の中で、日本の大人たちは、それまでの世界的に素晴らしかった精神的な価値観をないがしろにし、「高度成長」のかけ声の下で物質主義的で拝金主義的な価値観ばかりを追い求めてきたのではないでしょうか。(略)
「武士は食わねど高楊枝」という毅然たる生き方はどこへ行ってしまったのでしょうか?国家百年の大計に基づいて、”清貧”に甘んじながら、未来を背負って立つべき世代に対して「人間いかに生きるべきか」という哲学や理念を率先垂範して見せてくれていたはずの高級官僚や政治家、経営者などのトップ・リーダーたちまでもが、私腹を肥やすことに汲々とし、国家や国民の未来のことなど、すなわち「公」的なことを何ひとつ考えていなかった、としかいえない現実を知ったとき、若い人々がどんなに大きな衝撃を受けたか想像に難くありません。自らのリーダーシップの欠如によって招き寄せられた国家や企業の大失敗に関しても、ただの一人として自発的・積極的に責任を取ろうとする者が見えず、国民の血税である「公的資金」で穴埋めすれば済むとしか考えていない。それが「公に奉ずる」ということだったのでしょうか。
第1部第1章 世界に目を開いてくれた先哲の教え より
「伝統」と「進歩」を止揚できていない。「伝統」の基礎があるから、「進歩」できるということです。
私も同意です。論理的に考えても、「進歩」とは過去より良くなっていることですが、過去を知らないと、比較できないので本当に進歩しているか分かりません。「進歩」には「歴史」や「伝統」が必要だということになります。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」歴史上の失敗を知らなければ、人は同じ失敗を繰り返します。「伝統」の中に失敗を繰り返さないためのヒントがあります。日本人が世界の中で誇りを持って生きていくための指針が「武士道」にあります。
武士道とは義と勇
武士道は「義」と「勇」の2本柱の理論でできています。「義」とは何が正しいかを判断すること、「勇」とは正しい行いを実践することです。他にも「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」「克己」と色々ありますが、この義と勇の派生ですので、義と勇を知らなければならないです。
つまり、正しいことを実践する、それだけなのですが、シンプルなだけに奥が深いです。
義とは
義は、武士の掟(おきて)中最も厳格なる教訓であった。武士にとりて卑劣なる行動、曲がりたる振る舞いほど忌むべきものはない。
義の観念は誤謬(ごびゅう)であるかも知れないー狭隘(きょうあい)であるかも知れない。ある著名の武士(註:林子平、1738〜1793年、江戸後期の経世家)はこれを定義して決断力となした、曰く、
「義は勇の相手として裁断の心なり。道理に任せて決心して猶予せざる心をいうなり。死すべき場合に死し、討つべき場合に討つことなり」
第2部第3章 義 Rectitude or Justice より
武士は、卑劣な行動、曲がった行動をしてはいけない。行動するべき場合は決断して、迷わず行動しなければならない。戦いで死ぬことや、敵を倒すことも覚悟しなければいけない。
「義」というのは、「武士道」を考えていく上でも最も重要な観念の1つであり、決して「個人」や「私」的なレベルに閉じ込めておくべきことではなく、必ず「公」のレベルまで高く引き上げて受け止めていかなければなりません。
すなわち「義」というものは、もっと広い意味の「公義」という形でとらえられるべきであり、その段階にまで持っていかなければ意味をなさない、と私は確信しているのです。広い意味という場合には、これはもう「武士」とか「平民」とかいった”階級”などには全く関係のない「人間」全体の生き方の問題となってくる。すなわち「人類社会」全体にかかわる根本的な問題としてとらえられなければならない、と思うからです。
第2部第3章 義 Rectitude or Justice より
李登輝氏は、義はキリスト教の「神との正しい関係」と同じものだ、といいます。個人さえ良ければ良いのではなく、社会全体にとって良い行動をしなければならない。
別の見方をすれば、社会にとって良いことをしたら、追随者が現れて、社会全体でその行動をする人が増えて、社会全体が良くなる、ということにもなるのでしょう。義士に賛同者が現れて、集団を形成したのが武士団です。
勇とは
勇気は義のために行なわれるのでなければ、徳の中に数えられるにほとんど値しない。何でも突進するのが勇気ではない。「恐るべきものと恐るべからざるものとを識別すること、それが勇気だ」
勇とは、まず耐えること。強敵から挑発を受けても、短絡的に戦うのではなく、大局的な視座から大きな判断を打ち出す。
勇気や誠に必要なのは「平静、すなわち心の落ち着きだ」という話もあります。昔の武士は戦場で追いつめられ、歌を掛けられても、即座に返歌することができた。心の平静があったからです。
感想として
生きるための指針としての武士道ですが、なぜ指針が必要かといえば、誇りを持って生きるためためだと思います。
私欲の為に悪事をして誇りを持てるかといえば、持てないでしょう。倫理や道徳に従って生きているからこそ、誇りを持てる。
道徳の中でも武士道は、心の中だけの受動的なものなく、実践を重視する積極的なものです。
日本の自殺者は年間3万人にもなりますが、生きる意味を見いだせないで絶望して死ぬ人がかなりいると思います。広い世界に目を向ければ、世界に問題は山積しています。問題があるということは、やるべきことがいくらでもあるということです。死ぬ前に十分生きたのか、考え直してみればどうでしょうか?
次回の【沖縄決戦】尖閣諸島中国漁船衝突事件のビデオ【その12】 - 流水成道blogに続きます。
松浦彰夫 拝
「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは
「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは (小学館文庫)
武士道 (岩波文庫)