革命の立役者たち② - 流水成道blog

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革命の立役者たち②

「黒五類」の出身者である彼らは、自分たちの労働や価値や大望にふさわしいポストをいつの日か手に入れるような現実的なチャンスを与えられないことに欲求不満を抱いていました。このような結果から「黒五類」が学生のなかの多数派を占めていたエリート的な学校こそが、しばしば最も革命的となったのです。それで「紅衛兵」が「生まれの悪い人々」にも正式に拡大されることが1966年10月1日に中央文化革命小組によって布告されました。

紅衛兵グループの結成が許可されると、この運動は決定的な拡大をみせました。この機会に、文化大革命の初め以来、労働者に押し付けられていた否定的な政治的評価のすべても取り払われたのです。名誉回復された人々は、「右派分子」など貼られたすべてのレッテルの取り消しと、身の上記録が記入された秘密のカードの破棄を勝ち取ろうとしました。

また、その時、2種類の工業労働者が大挙して学生と高校生の群れに加わりました。1つめのカテゴリーは、年齢の如何にかかわらず、「後進的分子」と、政治的基盤に基づくその他の被差別者であり、もう一つのカテゴリーは雇用の保障も、労働組合の保護も無い、季節労働者と日雇い労働者でした。後者は概して若く、新しい大工場のプロレタリアートの多数を形成しており、給料の値上げと恒常的契約を要求していました。これに加えて、急速な昇進の機会をうかがう一握りの若い幹部や、かつてなんらかの理由で処罰を受け、報復心に燃える責任者や、さらに、いつもその時々のオオカミと一緒に吠えたがる(真っ先に裏切るのも彼らだ)日和見主義者などの連中もあげることができます。要するに、すべての権力の攻撃に乗り出した不満分子の雑多な連合ができあがったのです。

しかし、彼らは都市住民の20%程度の少数はであり、彼らが成功しえたのは、国家が中央部の攻撃によって麻痺させられた場合と、人民解放軍が中央の指示によって厳しく規制された場合とに限られていました。結局のところ、革命を後方から動かしていたのは毛沢東だったのです。その毛沢東ですら、力関係のめまぐるしい変化や、地方による多様な状況や、さらに反抗と帝国の維持、この双方の折り合いをつけようとする彼のたえざる探求を考慮すると、時には何をすべきかわからないことがあったほどでした。「造反派」がひとたび「権力を獲得すると」、彼らの内部矛盾や利己的な野望がただちにむきだしになって前面に出、そこから、何々に反対としか自らを規定出来ない分派間の容赦ない闘いが引き起こされたのでした。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
文化大革命:アナーキーな全体主義(1966〜1976)

共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo

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このページは、倉橋正幸が2010年8月28日 16:33に書いたブログ記事です。

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