中央機構内部にあり大躍進の破滅的失敗に見舞われた毛沢東は、1962年以降、国の実質的指導を劉小奇・共和国主席に譲らなければなりませんでした。党主席という、威信だけはある地位に追い込まれた毛沢東は、生きながら疎外された存在へになることを恐れ、自分の根本的な選択を押し通す役割を演じられる有能な仲介役を探していました。毛沢東は、1957年の粛清の時に幹部と知識人の大半の支持を失い、また、1959〜1961年の飢饉の際には多数の農民の支持をも失ったことを意識していました。しかし、共産主義中国のような国では、受け身な多数派、一人一人がバラバラで、おびえている多数派というものは、戦略的一に陣取った活動的な少数派に比べれば大した存在ではありませんでした。
1959年以降、人民解放軍は「偉大な舵取り」に忠誠を誓う林彪(りん・ぴょう、リン・ピャオ、1907年12月5日 - 1971年9月13日)に指揮されていました。軍事訓練は学生にとって義務となり、武装民兵は1964年以降、人民解放軍により工場、街区、農村地区に組織ないし再編成されました。軍隊は、当時も将来も、決して権力に取って代わる組織ではありませんでした。しかし、毛沢東にとって軍隊は、彼の「生命保険」であり、あるいは彼自身が述べているように彼の「万里の長城」だったのです。また、毛沢東が頼りにしていた戦略的な要素とは、中等教育、高等教育、および職業教育学院に就学していた世代でした。彼らは都市部、とりわけ最大規模の市に集中しているとい強みがありました。都市部こそ、権力の為の闘争が展開される場所となるだろうからです。
1949年の革命後にまるごと教育された最初の世代である彼らは、まだ若く、あまりにも都会的で、大躍進の惨禍について何も知りませんでした。この世代は毛沢東に「真っ白なページ」であると説明され、「世界は君たちのものだ。中国の未来は君たちのものだ」と保証されたので、紅衛兵の歌の歌詞どおりに「党は我が母、我が父」で有ることを早くから知っていました。そして、万が一親子関係にもめ事が起こった場合でも、選択は明快で、生みの両親を否認すべきものでした。
しかし、同時に小さなロボットとしてふるまうように仕込まれた若者たちは、親の世代から革命家や戦士としての武勲を聴かされていた為に、自分ではヒロイズムを発揮できない不満を感じていました。そのため、1966〜1968年の対決の際に、長征や、抗日ゲリラなどを進んで模倣する行動にでることになるのです。マルクス流に言えば、もう一度、しかし今度は喜劇の形で、歴史は繰り返されようとしていたのです。
@今回の橋前勇悟の金融時事経済の内容は「ハイパーインフレ」でした。いつも判り易く説明されているので、経済が苦手という方にもお勧めです。さらに、橋前氏は毎週、秋月便りで経済コラムを執筆されているのですが、ラジオでは放送できない内容なども記載されているので、今後の経済について気になる方は是非「秋月便り」も購読してみましょう。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
文化大革命:アナーキーな全体主義(1966〜1976)
共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo












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