文化大革命は、中国現代史の他のエピソードにもまして世界中に衝撃を与えました。言説といくつかの行為の極端なラジカリズムととともに、革命の舞台が都市部であり、政治家や知識人の階層に凝宿して現れたものでした。しかも、文化大革命はテレビの時代にふさわしく、熱情に溢れた数々の政治的儀式の見事な映像を世界に提供しました。革命は、それまでの諸運動と違って、終結するとほとんど同時に、中国自体においても公式に断罪され始めました。古くからの共産党の幹部や指導者に対する紅衛兵の暴虐ぶりを告発することは常套句となりました。もっとも、その直後の「秩序」への復帰段階において人民解放軍が犯した虐殺にこだわることは明らかにそれほど歓迎されませんでした。
文化大革命の第一の逆説は、最も熱狂的な過激主義が、成功の一歩手前まで達したように見えたとき、(わずか1年ちょっとでほとんどすべての権力中枢を一掃し、強固に制度化したように思われていた革命過程の再出発の瞬間においてさえ)文化大革命は都市部に部分的運動として、ただ青少年学生のあいだでのみ覇権をふるう運動としてとどまっていたという事実です。これに反し、当時核武装に専念していた科学研究にも、農民階級にも、軍隊にも手をつけないことが「中央文化革命小組」自身によって決定されました。これはより高く飛躍する為の一歩後退でした。つまり、社会および国家のいかなる部門も、本来は革命化を永久に免れてはならないということです。しかし、農村住民の大部分は「ささやかな自由」と自留地とに固くしがみついていました。また、防衛能力を破壊することも、経済を破壊することも問題外でした。最近の大躍進の経験に照らし合わせても、後者の点について彼らは慎重でした。前提となるのは、知的・芸術的「上部構造」内の権力奪取であり、国家権力の征服だったのです。しかし、この目的は達せられることはありませんでした。
1950年代の粛清とは大きく違って、特定の住民層を一掃するという目的が打ち出されたことは一度もありませんでした。最も犠牲者が多く出たエピソードは、全体としては「失態」の結果、すなわち、総体的計画もない、地域的規模での比較的自然発生的な暴力の結果、生じたものでした。土地改革よりも、すでに1989年6月の弾圧(第二天安門事件)に近いといえます。おそらく文化大革命は、革命的エネルギーを失った中国共産主義の行き詰まりの最初の兆候として残るに違い有りません。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
文化大革命:アナーキーな全体主義(1966〜1976)
共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo












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