毛沢東の警察は尋問方法に磨きをかけ、誰もが抵抗しようがないほどの洗練度に達していました。彼らの目的は、ありしもない犯罪を囚人にあげさせることよりも、腐敗し、有罪であり、処罰に値すると囚人に認めさせることにありました。囚人にはいかなる弁護の手段もありませんでした。なぜなら、逮捕されたことが、彼の有罪性の議論の余地のない絶対な証拠だからでした。
判決が言い渡されると、受刑者は労働収容所に送られました。まず、12時間続く重労働に耐えられる能力を採点され、その労役は、拘禁センターと同じく日に2回の粗末な食事しかでないため、一層消耗の激しいものでした。「高成績労働者」への食料配給制を設け、労働成績は監房や大部屋のレベルでも考慮の対象となりました。そのため、幹部層の最大幸福のために、だれが一番働くかという(16時間、18時間ぶっづけで)集団競争がはじまることになりました。
衣類は逮捕されたときに着ていたものをその後何年間も着ているのが普通でした。冬の上着は中国のシベリアともいうべき満州北部の収容所でしか支給されませんでした。食料の平均配給量は、月に穀物12キロから15キロのあいだでした。これは、王政復古時代のフランスの徒刑場より、ソビエトの収容所よりも少なく、1975〜1977年のベトナムの収容所とほとんど同じだったのです。そのため食料泥棒が横行する一方、農場では「自主的食料補給(たとえばネズミを乾燥させて食べる)」が行われました。医療は最低限度しか存在せず、虚弱すぎるもの、高齢過ぎる者、助かる見込みの無い者は収容所へと送られ直ぐに死んでいくのでした。
受刑者がたどった軌跡は、国がたどった軌跡に合致しました。受刑者が「労改システム」と呼いう生活の場で経験を積んで行くに連れて、システムの独創性であるあずの再教育を強調する面は、次第におろそかになっていったのです。受刑者のあいだにますます頻繁に暴力団が組織されていくうちに、中央機関の支配力は少しづつ緩んでいきました。幹部は服従とヒエラルキーの尊重を、自分の側が譲歩するか、あるいは新たに暴力を行使して、勝ち取らなければなりませんでした。
一方的には、自分を今以上の者に高め、向上をはかり、身を清めて、輝かしい未来をめざして前進するプロレタリア大衆に加わるという呼びかけがあり他方には、どんなに努力しても、囚われの身で生涯を過ごすという現実がありました。自己改善可能性にかんするかなる言説も、運命に支配された社会の過酷さを隠しきることはできませんでした。これと同じ、耐え難く非人間的な矛盾こそが、文化大革命という社会の内的爆発を引き起こし、さらには、矛盾が解決されないがゆえに、大革命の失敗をもたらすことになったのです。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
労改(ラオガイ)ー隠された<グラーグ>
共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo












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