中国では、有罪だから逮捕されるのではなく、逮捕されたから有罪なのです。いっさいの逮捕は、毛沢東が主席である共産党に支配された「人民政府」の一機関の警察によって行われました。ですから、逮捕の正当性に異議を申し立てることは、毛沢東の革命路線に反対することであり、反革命分子としての自己の本性を一層暴露することになりました。自分の犯罪を認め、万事において服従すること、これが唯一許された道でした。
この精神システムの以上な論理によれば、被告人自身が自分の逮捕の理由を提供しなければなりません。数ヶ月の作業、数百ページにわたり、数十年の人生を物語るような、自白書の執筆であり、長期にわたり繰り返され、時には3000時間に及ぶことすらある尋問でした。「党には時間はたっぷりある」とはよく聴かされた言葉でした。取調官は頻繁に、睡眠の剥奪や、非常に重い刑罰の脅しや、さらに稼働中の拷問室への恐ろしい見学などの手段に訴えたのです。
いづれにせよ、1950年代半ばと文化大革命の間の時期は、厳密な意味での肉体的暴力がふるわれていることは稀でした.拷問に似たすべての行為や、殴打や侮辱でさえ厳禁とされ、被拘禁者もそれを知っていました。ゆえに、「失態」が有った場合、婉曲な形の暴力に訴える手段として「試練」(他の囚人からの殴打は許されていた)を受けさせるか、暖房も無く、空気もめったに通らない残忍な懲罰房に閉じ込める処置が使われました。懲罰房は横になれないほど狭く、たいていは鎖につながれていたため、排泄や食事はほとんど不可能でした。飢えた囚人は、制裁が一週間以上長引くと、ほとんどの場合死んだのです。
特別の手錠をはめさせ、囚人の手首を締め上げることは、毛沢東の刑務所できわめて広く行われていた拷問の形態でした。囚人が食べることも飲むことも、便所に行くこともできないようにすることもありました。その目的は、個人を貶めることにより、その士気を失わせることにあったのです。人民政府はあらゆる形態の拷問を廃止したと主張していたので、これは公式には「懲罰」または「説得」と呼ばれていました。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
労改(ラオガイ)ー隠された<グラーグ>
共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo











