大躍進の思い出 - 流水成道blog

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大躍進の思い出

農民たちは大躍進のことを、生延びてこられて幸運だった、そういう大災害でもあったかのように話していました。1959年から1960年nにかけての「共産風」のあいだ農民の飢餓感はひどく、実った稲を刈り取る力さえないほどでした。食べる為にお互いの子供を交換しあう家族たち、自分の子供と取りかえっこした子供の肉を噛み締める親たちの苦痛に満ちた顔。その死刑執行員は毛沢東でありその盲信者たちは彼らのシステムと彼らの犯罪的政治により飢えをしのぐ為に子供の肉を食べるように強いたのでした。

1959年から1961年までのあいだ、党が呆然として災害を眺めていたあいだ、すべてが進行しました。毛沢東が推進した大躍進を批判することはあまりにも危険でした。しかし、状況があまりにも悪化したため、ナンバー2の劉少奇が党主席を追い込み、人民公社の設立以前の「ソフトな」集団化へ復帰する路線をおしつけることができました。これにより、速やかに飢饉からは抜け出すことが可能になりましたが、貧困からは抜け出せませんでした。

文化大革命時代の証言がすべて一致しているとおり、村落世界の貧困は非常であり、絶えず栄養不足に落ち込む限界線上にありました。大躍進のトラウマから、農民は体制側のプロパガンダに極度に懐疑的になっていました。毛沢東の死後、1981年に中国共産党が元主席かんする「最終評価」を発表したときも、大躍進は、公式の形ではいっさいの断罪を免れ続けています。

 

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
大躍進の思い出、あるいは、魏京生はいかにして毛沢東主義と決別したか

共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo
 

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このブログ記事について

このページは、倉橋正幸が2010年7月 9日 21:57に書いたブログ記事です。

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