アストラハンの虐殺 - 流水成道blog

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アストラハンの虐殺

アストラハンの町はボリシェヴィキにとって戦略上とくに重要な意味を持っていました。北東からのコルチャーク提督の軍勢と、南西からのデニーキン将軍の軍 勢とが合流することを阻止しなければならない重要地点だったのです。そのため、1919年3月にこの町のストライキはかつて無いほどの荒々しさで鎮圧され ました。

きわめてわずかな配給量(経済的理由)から始まったストライキは、ストライキを行っていた労働者に、反乱軍兵士が合流することで質的に変化しました。多く の牢獄から出されたスト参加者と反乱兵は、平底船に乗せられた後、首に石を付けられて何百人もがヴォルガ川に沈められました。3月12日から14日にかけ て、2000〜4000のスト参加者と反乱兵が、銃殺させられたり溺死させられたのです。15日からは「白軍」の陰謀を教唆したという口実で、ブルジョア が襲われました。富裕な商人の屋敷は掠奪され、主人は捕らえられて、銃殺されました。アストラハンで虐殺された「ブルジョワ」の犠牲者は、およそ600か ら1000の間と見積もりされます。

一方、共産党の側で殺され、埋葬された者の数は47人でした。赤軍と白軍の間の戦闘のエピソードとして語られてきたアストラハンの虐殺は、クロンシュタッ トの虐殺前の、ボリシェヴィキ権力によって行われた最大の労働者虐殺だったのです。

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このページは、倉橋正幸が2010年7月 3日 08:18に書いたブログ記事です。

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