農村勤労者はあらゆる労働に動員され疲弊しきっていました。「経済的妄想と政治的欺瞞」の結合の結果、農民には取り入れる余力すら残っていない悲惨な収穫高でした。河南は水利工事が100%完成したと宣言した最初の省でしたが、それはまた、飢饉によって最も酷い打撃を受けた省の一つでもありました。推定でも200〜800万人の死者を出したと言われています。
1959年7月、彭徳懐(ほうとくかい)が共産党政治局で毛沢東の戦略を攻撃したため、毛沢東は政治戦術的理由から己の非を認めまいとして、どんな難問も存在するのを認める事を拒否しました。毛沢東は自分の地位を揺るぎないものにしようとして、1959年8月大躍進の再開と深化を押しつけ、以後、人民公社は都市にまで拡大されると約束されました。中国は大飢饉に見舞われました。それでも毛沢東は生き延びるのでしょう。なぜなら歴史をつくるのは天才たちなのだから。
飢饉は国全体を襲い,北京ではバスケットボールのコートまでが野菜畑に変わりました。しかし、備蓄食料の配分と権力機関の近接性の点で恵まれていた都市では、打撃はそこまでひどくありませんでした。1961年の時点で食料配給率は都市住民で減少率8%であったのに対し農村住民は25%減少しました。毛沢東は中国の支配者の伝統に忠実に、農民という人々の存在についてさえほとんど心遣いを見せることはなかったのでした。
ヨーロッパの過去の飢饉の例によれば、工業作物(サトウキビ、採油植物、ビート、綿花)に特化した地域では、ひときは厳しい飢餓に襲われたとき、飢えた人々はもはや製品を買う手段も無いので、生産が崩壊してしまうようです。飢饉が本質的に政治次元のものだったことは、正常時はむしろ穀物を輸出する省なのに、当時過激な毛沢東主義者に指導されていた省にきわめて高い死亡率が集中していた事実によって証明されます。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
史上最大の飢饉(1959ー1961)












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