1949年に共産主義者が権力を獲得したこの国では、暴力と虐殺とが、統治手段として、対抗手段として、あるいは隣人との紛争を清算する手段として、きわめて当たり前になっていました。毛沢東後の公式な歴史において、1957年の反右派闘争の直前まで、偉大な舵取りの毛沢東はほぼ正しい方向に舵を切っていましたので、この時期はすばらしいイメージをとどめているのです。このことから、この時期の共産党員はそれほど粛清の波をかぶることはありませんでした。しかし、中国共産党が打ち出した弾圧の波は、国の全土にわたり展開されました。その広がりや、全般性、継続期間からいっても、毎年のように新たな『大衆キャンペーン」があり、計画化され中央集権化された面からいっても、それは中国的な暴力に質的飛躍をとげさせたのです。
1943年延安での「整風運動」は、その規模たるや広大な国土のなかの辺鄙な地区で起こっただけでした。13世紀のモンゴルですら、帝国の北部を荒廃させただけだったのですが、今回の一連の虐殺は、ある社会層にかんしていえば、中国がそれまでに経験したことのないようなジェノサイド的様相を帯びたのでした。これら残虐行為のいくつかは、3年間にわたる激しい内戦の中でおこったのです。たとえば、満州のスーワンツの町を占領した際に500人の住民が殺されましたが、大部分はカトリック信者でした。やがて1948年に共産党が優位に立つやいなや、プロパガンダ目的で敵の捕虜を大量に釈放するのをやめたのです。何十万という捕虜たちは、再教育と戦争努力への貢献という2つの配慮を結びつける、あらたな労働による改造のための収容所(労働改造、略して労改(ラオガイ))の最初の住人となったのでした。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
土地改革と都市での粛清(1946ー1957)
ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?
共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo
土地改革と都市での粛清(1946ー1957)
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このページは、倉橋正幸が2010年2月23日 10:52に書いたブログ記事です。
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