彭湃(ほうはい)は軍隊化した農村主義者の発案者でした。この方針は、農民の出身である毛沢東のが取り上げ、理論化されたのが有名な「湖南農民運動視察報告」(1927)です。当時、蒋介石の国民党の弾圧下に総崩れの状態にあった、都市的・労働者てきな共産党主義運動に代わる案として急速に力を得ていきました。そして、1928年位は「赤色基地」を建設するにいたり、1931年11月7日(ロシアの十月革命の記念日)に中華ソビエト共和国の成立が宣言されたました。そして、毛沢東は人民委員会の主席となったのでした。
革命の力学を国家の建設に集中し、さらには、本質的に好戦的なその国家を、敵の傀儡国家(この場合は蒋介石の指導する南京の中央政府のこと)とその軍隊に打ち勝つような軍隊を建設するのが目的でした。この点において、中国の場合は、ロシアの初期ボリシェヴィスムから遠く離れていますが、マルクス主義からはさらに遠いといえるのです。権力獲得と民族的・革命的国家強化の戦略へと単純かされたボリシェヴィスムを媒介することで、中国共産党の創立者達は共産主義にたどりついたのでした。このようにして中国共産党が勝利する所では、兵営社会主義(特別法廷と銃殺用射撃班)が存在することになりました。このモデルを提供したのが彭湃だったのです。
1936年から1938年のスターリンの「大テロル」より先に、中国のソビエトで大テロルがありました。推定では1927年から1931年のあいだに江西省だけで、戦闘によらない犠牲者を18万6000人も出したのです。大半は急進的土地改革、重税、軍事的必要による青年の動員などへの抵抗でした。住民のいだいた嫌悪感は根強いものだったのです。農民に課せられた税の負担は恐るべきもので、1941年には収穫の35%が天引きされ、これは国民党が保持する地域の4倍に相当したのです。村人たちは公然と、毛沢東の死を望むようになりました。共産党は抑圧を加えましたが、譲歩もせざるをえませんでした。つまり、阿片の栽培と輸出を行い基地の公的収入を賄ったのです。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
テロルと切り離せない革命(1927ー1946)
ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?
共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo
テロルと切り離せない革命(1927ー1946)2
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