テロルと切り離せない革命(1927ー1946)4 - 流水成道blog

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テロルと切り離せない革命(1927ー1946)4

1949年以前の時期において最も有名な粛清は、1942年6月に延安で最も優秀な共産党知識人を襲うことから始まりました。15年後に毛沢東が全国レベルで行ったのと同じように、まず2ヶ月の間きわめて大幅な批判の自由を許可しました。そして突然、すべての活動家は、男女平等の形式主義を告発していた丁玲(ていれい)と芸術家のために創造的の自由と権力にたいする意見具申の自由を要求していた王実味(おうじつみ)の二人に対して、「闘争する」よう「促され」ました。力つきた丁玲は自らをおとしめる自己批判を受け入れ、屈服しない王を攻撃しました。共産党を除名された王は投獄され、処刑されたのでした。1942年2月「文芸講話」の中で展開された知識人の政治への服従という教義は、以後、法律に等しい価値を持つことになったのです。

1943年7月、粛清は再燃しました。活動家たちを保護するという大義名文をもった「搶救運動」(そうきゅううんどう)の中心人物は、政治局員の康生(こうせい)でした。黒い馬に乗り、黒い犬を連れ、ソビエトのNKVDで教育された康生は共産主義中国で最初の本物の「大衆キャンペーン」を組織することができたのです。つまり、批判と自己批判の全面化、自白に至る選別的逮捕、殴打を内実とするキャンペーンであり、毛沢東の思想を高める運動でした。逮捕、拷問、死亡が広がり、毛沢東は「スパイは毛皮の毛の数ほど大勢いる」と断言し、党指導部が不安を覚えるほどでした。

それまで度々ありましたが、毛沢東は豹変して「われわれは誰一人ころしてはならない。大部分は逮捕されるいわれさえな買った人々だろう」と宣言しました。こうして運動は最終的に中断されたのです。1944年4月、毛沢東は高級幹部の集会で謝罪し、無実の犠牲者達を称えて三度頭を下げ、拍手喝采を浴びました。毛沢東はテロルで人気を失いはしましたが、その分だけ、人心に恐怖を植え付けたのでした。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
テロルと切り離せない革命(1927ー1946)

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo

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このページは、倉橋正幸が2010年2月21日 05:00に書いたブログ記事です。

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