暴力的伝統によるのか?3 - 流水成道blog

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暴力的伝統によるのか?3

倫理的原理は超越的なビジョンから派生するのではなく、調和と社会運営の有効性とを重視するプラグマティズムから生まれるのです。これとは別に法家のプラグマティズムがあります。法家は孔子や孫子の同時代ですが、プラグマティズムは逆であり、社会を恫喝することで、国家がその全機能を確立する必要性を強調したものでした。秦の時代、法家思想は栄光の時期を迎えましたが、同時に社会を機能させる上での国家の根本的無効性を証明してしまいました。それは秦王朝が短命に終わったことでも明らかです。

秦の始皇帝(紀元前221〜210年)が、460人の知識人と行政官が生き埋めにしたこと、すべての古典文献を焼き払わせたこと、約2万人の地方貴族に死刑ないし流刑を言い渡したこと、万里の長城建設の為に何万人もの生命を犠牲にしたことは確かです。(毛沢東が秦の始皇帝をモデルとしたのも明らか)反対に漢王朝(紀元前206〜紀元220)になると儒教が力強い復活をとげ、暴政や頻繁な殺戮を経験することはなくなりました。秩序は厳正で、裁判は厳格であり、中世・近世ヨーロッパ諸国と比較しても人命はむしろよく保証されていたのです。

唐王朝(618年 - 690年・705年 - 907年)になってからの645年には人道的な刑法が公布されていました。反乱時の家族の連帯責任を問うことの廃止や、死刑執行の手続きが複雑で時間の掛 かるものになり、同時におぞましい刑罰が廃止されたのです。そのうえ、上訴の制度も設けられました。先のタイプの権力の恣意性は北宋王朝(960〜 1127年)移行は次第に少なくなっていったのです。

1850年の中国の人口は4億1000万人でしたが1873年には3億5000万人に減少しました。数々の大反乱・西洋帝国主義による度重なる侵略・窮乏化した人々の絶望の増大などを特徴とする激しい混乱期だったためです。太平天国の乱とその鎮圧(1851年〜1868年)の時は2000万〜1億の死者を出したとされていますが、意図的に殺戮されたのは、およそ100万人前後でした。共産主義革命家の登場に先立つ先行世代の生きた時代は、稀なレベルの暴力と価値観の崩壊に慣れていったのです。

しかし、20世紀前半の中国には毛沢東主義の猛威を予告するような要素はほとんど無かったのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
暴力的伝統によるのか?

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo

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このページは、倉橋正幸が2010年2月 1日 00:00に書いたブログ記事です。

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